180121_「主を畏れよ」_箴言1:7-19

「主を畏れることは知恵の初め」(7節)。この言葉は箴言全体の「標語」と言われる。箴言を全て読んだことがない人でも、この言葉だけは聞いたことがあるだろう。「初め」とは、出発点、開始という意味もあるが、「本質」という意味だ。「源」、「源泉」と言ってもよい。主を畏れ敬うこと、主を主とすることが、人間の知恵の本質ということだ。言い換えれば、この世のどんな知識、知恵を持ち、処世術に長けていたとしても、主を畏れることを知らなければ、それらはまことの知恵とはならないということだ。

今日の箇所は、標語とも言える言葉のすぐ後に記されている。「父の諭し」「母の教え」として、具体的な事柄が書かれている。それはならず者の誘惑にくみしてはならないということだ。それは、強盗、強奪、殺人の誘惑である。さらには、財布を一つにしよう、つまり「運命を共にせよ」という誘いである。しかし、その誘いは「流血のたくらみ」であり、滅びにいたる誘いであると父は「わが子」に諭す。

何というひどい誘いかと思う。だれがこんな誘いにのるのかと思う。しかし、この誘惑が最初に記さなければならない事情があったのだ。若者たちが、ならず者たちの誘いに乗ってしまう現実があったのだ。特にバビロン捕囚を経験し、疲弊した社会状況の中で、暴力的組織に心を奪われていく若者たちがいたと言う。

大国に挟まれている小国イスラエルは、常に大国の思惑に翻弄された。アッシリア、シリア、バビロン、ペルシャ、エジプトなどの覇権争いに飲み込まれていった。王たちは、どの大国と手を組むか、その判断が、イスラエルの運命を左右していた。預言者たちは、その王の外交政策に向かって神の言葉を語った。エレミヤやイザヤなどはまさにそうだ。

シリアと北イスラエルが手を組みアッシリア帝国に抵抗を初めた時、南ユダも同盟を組むように誘われた。しかし、イザヤは、「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを/何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主」(イザヤ8:12-13)と語り、主にあって恐れず、静かにしていることを語った。しかし、アハズ王はアッシリアに助けを求め、その結果、南ユダはアッシリアに財布を握られることになった。そして国は疲弊していった。

イスラエルは、大国に翻弄され、そしてついにはバビロンによって滅ぼされた。その歴史の痛みの経験からこの箴言は「父母の教え」として語られているのだ。箴言は机上の格言ではない。歴史的教訓といってもよい。  他人事ではない。私たちの歴史に照らしても、この箴言の言葉はいまの私たちに迫ってくる。私たちもまた滅びの歴史を経験している。原子爆弾を2発も投下されるという特別な歴史を担っている。にもかかわらず、核兵器廃絶に対してリーダーシップを発揮できない。そこには、死の商人たち、「ならず者」たちの誘惑があるからではないか。「わが子よ、彼らの道を共に歩いてはいけない。その道に足を踏み入れるな」(15節)。私たちは、あの敗戦の痛みを経て、二度と戦争をしないという誓いを立てた。そこから離れてはならない。人間の知恵、人間の知識は人に力を与えるが、主を恐れることから離れた知恵は、人間を時に化物にする。いま、私たちは「主を畏れる」ことに立ち返られなければならない。

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