牧師の長い自己紹介

DSC_13011975年3月横浜市に生まれる。「心も体も健やかに太く育って欲しい」という両親の願いが込められた名前。心はともかく体は十二分すぎるほど両親の願いをかなえたと自負する。

小学生のときから野球に没頭。憧れのマリンブルーのユニホームを着て甲子園でプレーすることを夢に見て横浜市立横浜商業高等学校へ入学(通称Y校。よく松坂投手の横浜高校と間違われるが違う。かつてはYY対決として神奈川県の高校野球を盛り上げたが最近は我が母校はすっかり弱くなってしまった・・・・・・。公立と私立の壁はやはり厚い)。

部員は当時150人を越えていた。各地からエースで4番、主将が集まってくる。上下関係も厳しかった。今ではそのようなやり方に嫌悪感を覚えるが当時は「当然のこと」として受け止めていた。後輩にも厳しく指導?したこともあった。1年生の時には夏の甲子園に出場。といっても私はアルプススタンドから炎天下の中連日大声を張り上げて応援。ベスト8まで進んだ。3年生の時にベンチ入りを果たすものの準決勝でYY対決に破れ、夢は叶わなかった。

そんな私のキリスト教との出会いは幼稚園時代に遡る。広島県安芸郡で日本基督教団の教会付属幼稚園に入園する。これがキリスト教との最初の出会い。年中の時に父の仕事の関係で横浜にもどる。転入した幼稚園がカンバーランド長老キリスト教会希望が丘教会付属めぐみ幼児園(何とも長い名前だ)。両親はクリスチャンでもなければ、教会に足を運んだことさえない。にも関らず「せっかく広島でキリスト教に触れたのだから」と言い、近所にある幼稚園の中でもっとも幼稚園らしくないめぐみ幼児園に転入させた(この選択によってまさか将来息子が牧師になると言い出すとは思いもしなかっただろう。神は不思議な方だ)。

洗礼は中学3年生のクリスマス(1989年12月24日)に希望が丘教会にて瀬底正義牧師から受けた。めぐみ幼児園からの幼馴染であるN君とW君と一緒に3人で受けた(N君は牧師の息子で幼児洗礼だったので信仰告白だった)。「神は愛である」これが私の信仰の原点だろう。受洗をしたとき、これだけしか思うことはなかった。 少年野球をしていて日曜日に教会に行くことは年に何回かであったが教会から離れなかった大きな理由は、牧師家の子どもたちと同世代だったからだ。いつでも帰れる場所。それが私にとっての教会であった。

高校野球を終えた1992年の夏から毎週教会に通うようになる。希望が丘教会は青年たちが大勢集まっていて活気があった。元気の良いお兄様方に連れられて深夜までよく遊んだ。かなりハチャメチャナこともした。楽しかった。合言葉は「いける、いける~!」。何でも若さゆえの勢いだった。それでもみんな真剣に教会のこと、信仰のことを考え、そしてよく奉仕をした。その仲間たちも今では牧師や長老、執事、ミッション系学校の教師などの働きをしている。希望が丘教会の青年会で学んだことは「委ねる」ということ。みみっちい計算をはるかに超えて神は働かれる!神に委ねきる!それが”希望が丘スピリット”とよく言われた。

大学は千葉県浦安にある明海大学経済学部に入学。毎日ディズニーランドのシンデレラ城を見ながら横浜から2時間の通学。幾つかの大学から野球推薦を頂いていたが燃え尽き症候群か、大学まで野球をやる気になれなかった。それでも、自分の仲間が大学でも活躍するのを新聞などで知ると自分もやっていればよかったと後悔もした。 大学は希望する大学ではなかったこともあり、最初何だか虚しい時間が過ぎた。大学の仲間で野球チームを作って活動したのは楽しかったし、よい仲間と出会えた。しかし、満たされない思いがあった。高校までは「甲子園」という生きる目標があった。しかしそれがなくなった時言いようもない恐怖を感じた。将来を考えるとなおのこと不安になった。自分はなぜこの大学にいるのか。将来、どのように生きるのか。本当にまじめに考え、祈った。 20歳の誕生日の朝、聖書を読んでいるとき「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)という御言葉が自分に語られているような迫りを感じた。自分なりの召命を感じた。

大学を卒業と同時に神学校へ進もうと一度は決意する。尊敬するS牧師に相談すると「甘い!社会にでて苦しんで来い」という言葉になんと酷い牧師だと立腹したものだ。喜んでもらえると思っていたのに・・・。そのときハッとした。自分はもしかしたら社会に出ることから逃げているのかもしれない。幼いころから教会で育ったものが神学校へ進むという教会の中ではとても喜ばれる宗教的美談に浸りたいからかもしれないという思いが沸き起こってきたので自分なりの召命感を抱えながら社会にでて働くことにした。

入社したのは塗料を取り扱う商社。営業の仕事をした。忙しくて大変だったが良い先輩や上司にも恵まれて、楽しい思い出がいっぱいある。仕事帰りに一杯やりながら人生について語らう時もあった。それぞれに見えないところで悩みを抱えて生きているのだということを知った。しばしば「信仰があるということは大切なことだね」と言われた。本当にそうだと思う。人生において私たちは大いに揺らぐけども、その中で絶えず指針を見出せるのが信仰だからだ。職場には恵まれ、それなりの成果を仕事においても出し始めていたが、3年後に退社。2000年4月に目白にある日本聖書神学校に入学する。神学校で勉強したいという思いが働く中で強くなったからだ。

神学校に入学する3ヶ月前の2000年1月に結婚。いわゆるミレニアム婚というやつだ。新婚ラブラブという日はそうは長く続かなかった。4月から私は昼は西早稲田にある日本基督教団出版局でアルバイトをしながら、夜、神学校に通い、妻は会社員といて働いた。希望が丘にアパートを借りていたが、大変だった。新婚ラブラブというのは幻想に過ぎず、我が家には新婚ギスギスの雰囲気が漂っていた。妻には本当に申し訳なく思っている。私自身も2年生の時には円形脱毛症が6個も出来た。大きいのは500円玉ぐらい。相当ストレスがかかっていたようだ。 3年生から神学校の寮に夫婦そろって入寮することが出来た。丁度妊娠が分かった直後だったので主の備えを実感した(本当は入寮できる予定はなかった。今振り返るとあのまま横浜で子どもを抱えていたら、我が家は間違いなく崩壊していたと思う)。

神学校は苦しくも本当に充実した日々だった。多くの出会いがあった。特に神学校のプログラムで2年、4年の時にフィリピンのネグロス島に行った事は本当に大きなことだった。貧しい漁村や砂糖黍畑に生きる人々との出会いは私の目を開かせた。自分の立つところを探られた。これからの自分の生き方を問われる旅だった。 神学校のクラスメイトは個性豊かで楽しかった。私たちの学年から神学校の雰囲気が変わったと言われる。よく出し物を企画してスタンツを披露した。今はみんな日本各地に遣わされて行った。きっと苦闘していることだろう。そして私も2004年3月に神学校を卒業し、国立のぞみ教会から招聘され4月から伝道師として着任し、2006年4月に按主を受け、牧師と歩んでいる。

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