180128_「元気に暮らしなさい」_マルコ5:25-34

 

名前も伝えられていない一人の女性の主イエスとの出会いの物語だ。彼女は12年に渡り出血が止まらないという病に苦しめられてきた。恐らく生理による出血だと思われるが、その病の故に彼女は、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、財産を使い果たし」た。しかも、病は「ますます悪くなるだけであった」(26節)。

当時、生理期間中の女性は、汚れているとされた(レビ15:19以下)。女性の触れるものに汚れが移る。接触した人も汚れ、清めを必要とした。病の苦しみ、医者への不信感、経済的損失、汚れているという自己認識、人との接触を禁じられた12年を彼女の心はどんなであっただろうか。

クリスチャンで児童精神科医の田中哲さんは、人間の心が健やかに育つには、「社会性と対人行動」、「自尊感情と自己受容」、「自己統制による心理的な安定」という三つの柱が必要だと言う。言い換えると、「知らない人の中でも居場所を見つけて、人とつながる行動」、「自分に対する自信」、「うまくいかないことに直面しても跳ね返す力」ということだ。この三つの柱が人間の心の大切な土台となるというのだ。

長血を患っていた女性は、病の故にこの3つの柱が育ちづらい環境に置かれていた。居場所はなく、律法の規定よって自尊心も押さえつけられていただろう。はねかす力も育ちづらかっただろう。  そのような中で彼女は「イエスのことを聞いた」。そして「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったのだ。この「いやし」という言葉は、ソーゾーというギリシャ語で、「救い」という意味を持つ。彼女はただ単に病気のいやしを求めたのではなく、彼女の置かれている状況からの救いを求めたのだ。

群衆に紛れ込み、イエスに近づく。相当の勇気を必要とする行動だ。ついにイエスの服に触れる。「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」(29節)病気が奇跡的に治った話ならここで終わる。しかし、この物語は「信仰による救い」の物語だ。だから話は続く。女性がイエスを求めた展開から、今度はイエスが彼女を探すことになる。女性は進み出て、主イエスにすべてを打ち明ける。すると主は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と言われた。主は、彼女のすべてを受け止め、包んでくださった。「娘よ」との呼びかけはそのように女性に響いたことだろう。彼女の求めていた救いは、イエスとの関係の中に成就したのだ。

「元気に暮らしなさい」は、口語訳では「達者でいなさい」とある。「達者」とは仏教用語で「真理に達した者」という意味らしい。キリスト者にとってはこっちの方がなかなか味わい深い訳のように思える。女性はイエスと別れた後の人生で変わらず困難なことがあったに違いない。だけども、彼女は真理なるイエスに出会った者として、イエスに「安心して行きなさい」と送り出された者として、「達者」に暮らしただろう。

愛する遠藤姉が天に召された。痛みを抱える人生でもあった。しかし、彼女は主イエスとの出会いの中で彼女は「辛抱」を知った。曰く「辛抱」とは、耐えることではなく、「辛い」ことが神の愛によって「抱かれる」ということだと。元気に暮らしなさい。

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180121_「主を畏れよ」_箴言1:7-19

「主を畏れることは知恵の初め」(7節)。この言葉は箴言全体の「標語」と言われる。箴言を全て読んだことがない人でも、この言葉だけは聞いたことがあるだろう。「初め」とは、出発点、開始という意味もあるが、「本質」という意味だ。「源」、「源泉」と言ってもよい。主を畏れ敬うこと、主を主とすることが、人間の知恵の本質ということだ。言い換えれば、この世のどんな知識、知恵を持ち、処世術に長けていたとしても、主を畏れることを知らなければ、それらはまことの知恵とはならないということだ。

今日の箇所は、標語とも言える言葉のすぐ後に記されている。「父の諭し」「母の教え」として、具体的な事柄が書かれている。それはならず者の誘惑にくみしてはならないということだ。それは、強盗、強奪、殺人の誘惑である。さらには、財布を一つにしよう、つまり「運命を共にせよ」という誘いである。しかし、その誘いは「流血のたくらみ」であり、滅びにいたる誘いであると父は「わが子」に諭す。

何というひどい誘いかと思う。だれがこんな誘いにのるのかと思う。しかし、この誘惑が最初に記さなければならない事情があったのだ。若者たちが、ならず者たちの誘いに乗ってしまう現実があったのだ。特にバビロン捕囚を経験し、疲弊した社会状況の中で、暴力的組織に心を奪われていく若者たちがいたと言う。

大国に挟まれている小国イスラエルは、常に大国の思惑に翻弄された。アッシリア、シリア、バビロン、ペルシャ、エジプトなどの覇権争いに飲み込まれていった。王たちは、どの大国と手を組むか、その判断が、イスラエルの運命を左右していた。預言者たちは、その王の外交政策に向かって神の言葉を語った。エレミヤやイザヤなどはまさにそうだ。

シリアと北イスラエルが手を組みアッシリア帝国に抵抗を初めた時、南ユダも同盟を組むように誘われた。しかし、イザヤは、「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを/何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主」(イザヤ8:12-13)と語り、主にあって恐れず、静かにしていることを語った。しかし、アハズ王はアッシリアに助けを求め、その結果、南ユダはアッシリアに財布を握られることになった。そして国は疲弊していった。

イスラエルは、大国に翻弄され、そしてついにはバビロンによって滅ぼされた。その歴史の痛みの経験からこの箴言は「父母の教え」として語られているのだ。箴言は机上の格言ではない。歴史的教訓といってもよい。  他人事ではない。私たちの歴史に照らしても、この箴言の言葉はいまの私たちに迫ってくる。私たちもまた滅びの歴史を経験している。原子爆弾を2発も投下されるという特別な歴史を担っている。にもかかわらず、核兵器廃絶に対してリーダーシップを発揮できない。そこには、死の商人たち、「ならず者」たちの誘惑があるからではないか。「わが子よ、彼らの道を共に歩いてはいけない。その道に足を踏み入れるな」(15節)。私たちは、あの敗戦の痛みを経て、二度と戦争をしないという誓いを立てた。そこから離れてはならない。人間の知恵、人間の知識は人に力を与えるが、主を恐れることから離れた知恵は、人間を時に化物にする。いま、私たちは「主を畏れる」ことに立ち返られなければならない。

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