カンバーランド長老教会 国立のぞみ教会

受洗について

国立のぞみ教会に初めて行ったのは、父が亡くなった2006年夏のことでした。父母の介護をめぐり兄姉との間で対立があり、父の死亡によって相続問題がからみ、父母に対する兄姉の対応の酷さに身の震える憤激を覚えました。「許せない!」という激しい感情のために、自分がどうかなってしまいそうで、自らの安らぎを求めて教会に行ったのです。 ところが、当時でも暗唱できた「主の祈り」の「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」がどうしても唱えることができませんでした。 私は「許せない!」とパンクしそうだから、救いを求めて教会に来ているのに。 許せるならキリストで、教会に来る必要はないじゃないか。 と思ったのです。

その後、依頼者が自殺したことで、再び「許せない!」とおかしくなり、中断していた教会通いを再開しました。でも、「主の祈り」に対する違和感は変わらず残りました。  2009年5月末に献堂45周年記念文集のために書いた『「ゆるす」ということ』がパソコンに残っていたのを読み返すと、当時の心情が理解できます。

「主の祈り」は、イエス様が「こう祈りなさい」と教えてくれたものなのですね。 「主の祈り」の解説手引書を読んで、「応用問題」には殆ど答えられないのですが、私が拘っていた「ゆるす」という部分に大きな示唆をうけました。  それは、どういうことかというと、そもそも私が「許せない!」という憤激を抱く対象は、「私に対する罪」ではなく、「私ではない第三者に対する罪」だということです。兄姉を「許せない!」というのも、父母に対する背信行為が許せないのです。依頼者を自殺に追いやった裁判官を「許せない!」のです。換言すると、兄姉も、裁判官も、「私に罪をおかす者」ではないのですから、「私がゆるす」という問題にはなり得ないことが論理的に納得できました。

もう一つの拘りは、「自分の罪をゆるしてもらうために、自分に罪をおかす者をゆるす」という、何か「ご利益」を求める便宜主義は「キリスト教であるはずがない」という疑問です。

解説手引書とは違うかもしれませんが、私が納得したのは、結局、「ゆるす」というのは「神の御業」であって、それ故に人は神に祈るのだ、ということです。「だから、こう祈りなさい」とイエス様が教えて下さった。そして、神に人を出会わせてくれたのが、イエス・キリストなのだと思います。 3 私が洗礼を受けないできたのは、私よりももっと「救い」を必要としている人が沢山いるという認識があって、自分自身の「救い」に切実さがなかったことが大きいと思います。実際、自分は相対的に恵まれているのですから、今でも切実さはありません。

しかし、人が祈るとき、それは必ずしも直接自分の救いを求めて祈るわけではありません。私よりももっと「救い」を必要としている人のために、私にも祈ることはできるのです。そして、私は、そう在りたいと思います。

ある依頼者は、私のことを「他の弁護士と違うのは何なんだろう・・」と考えながら話していて、「愛だ!」と思い至ったように言いました。本当にうれしかった。私は人の口から出る「正義」という言葉が嫌いです。「正義」は神のもの。キリスト教は、愛の宗教だと思います。 足かけ10年もの時を経て、国立のぞみ教会の皆様に祝福されて洗礼を受けることができるなら、とても幸せです。