私に与えられた「時」

1.キリスト教との出会い、そして再会
私がキリスト教に初めて出会ったのは、12歳の時で、キリスト教(プロテスタント)主義の中学校に入学したのがきっかけです。入学式当日、机に置かれた聖書と讃美歌を手にした時のこと、懐かしく思います。そして、学校での毎朝の礼拝や聖書の授業は学生時代の大切な思い出です。特にクラブ活動として聖歌隊に所属していたことで、朝の礼拝でのレスポンス、特別礼拝やクリスマスページェントでの歌の奉仕といった「歌」を通して、キリスト教に関わっていたことは、今教会にいる私の原点ともいえます。

しかし、高校卒業後は、キリスト教と関わる機会もなく、それは、結婚後も変わりませんでしたが、そんな私が再びキリスト教に関わるきっかけとなったのが、息子の幼稚園入園でした。息子に合っているのではとの思いから選んだ幼稚園が、国立市にあるキリスト教主義の幼稚園だったのです。私としては、キリスト教主義の幼稚園だからとの理由で選んだわけではなく、息子に合っているのではと思って選んだ幼稚園が結果としてキリスト教主義の幼稚園だったのです。今振り返ると、この選択にも何か意味を感じずにはいられません。

子供と共に幼稚園生活を送る中で、折りにふれ、キリスト教と関わっていた中学高校時代のことが思い出され、懐かしさを感じるとともに、何とも言えない居心地の良さも感じていました。また、この時期、牧師のお連れ合いとの出会いがあり、教会のこと等、様々なお話しを伺う中で、より一層キリスト教というものが身近な存在になっていったように思います。ただ、この時期は、教会のバザーやCSのクリスマス会等には伺っていたものの、主日礼拝に出てみようとの思いには至らず、私にとって、キリスト教は身近な存在になりつつも、まだまだ遠い存在として受け止めていたのかも知れません。

2.洗礼を受けるにあたり
娘の「教会に行きたい」との言葉がきっかけとなり、家族で日曜日に教会に来るようになって一年余りが経ちました。改めてこの一年を振り返ってみますと、私たち家族の中で、「日曜日は教会に行く」というのが当たり前になっていることに自分自身驚かされます。そして、気持ちの変化として、主日礼拝、イースター、ペンテコステ、サマーキャンプや修養会、そして、月1回の信仰入門クラスでの学びを通して、自然に神様の存在というものを考えることができたこと、聖書を通して語られる言葉に共感を覚えることも多く、聖書を学ぶ楽しさを感じることができたこと、そして何よりも、今までの出会い・出来事を通して今教会にいる自分というものが、決して偶然の連続ではなく、神様の導きによるものなのだと思え、その出会い・出来事、今ある自分を素直に受け止めることができるようになったことがあります。

この一年教会で過ごす中で、漠然とではありますが、いつかは洗礼を受けるだろうとの思いは持っていました。「いつかは」と考えていたのは、まだ教会に通い始めて日が浅いこと、聖書についてもまだまだ分からない事ばかりであること等から、時期尚早だと思っていたからです。そんな折、ちょうど前回の信仰入門クラスでの学びのテーマが「洗礼」だったのです。その学びの中で、唐澤牧師から「洗礼を受けることは到達点ではなく、出発点(基点、起点)である」とのお話しを伺い、洗礼に対する認識を新たにしました。そして、学びのやりとりの中で、私が「洗礼について、考えてはいます」と話した時、唐澤牧師から「では、今回のクリスマスに洗礼を受けてはどうか」とのお話しを頂きました。思わず、「今回のクリスマスですか」と驚いて答えてしまいましたが、次の瞬間、今回のクリスマスに洗礼を受けることを自然に受け入れていました。まさに、「今」が私に与えられた「時」なのだと感じています。

最後に、今日こうして皆様に見守られ、洗礼を受けることが出来ますこと、これから「キリスト者」として共に学び、共に歩んで行けますこと、神様に感謝いたします。