「ここに神の導きがあったとは」

教会には行事だけは数年前から来ていたが、礼拝に来たのはちょうど1年前のクリスマス会の後、子供が行きたいと言ったのが、目に見える最初のきっかけだった。それまで礼拝の存在を知らなかったので、最初は興味先行で参加した。初めて中に入る礼拝堂は思ったより和やかに感じた。そこには世代も性別も生活も異なる人々が集まっていた、それらの人々が一つの教えを聞き、祈り、またそれぞれの生活に遣わされていく不思議な光景を目にした。

徐々に礼拝は習慣になっていた。今思えば教会に来たのも何かの導きがあったのかもしれない。そこで何度も聖書の言葉に接するうちに、日常生活の見え方が変わってきた。いつも通る道で教会を見つけた、今まで気づかなかった。目を開いているとはこのことかと感じた。次は聖書の言葉を実践してみようと思った。

しかし聖書の言葉を知っているとか、自分の中で信じている、だけでは不足だということもわかってきた。信仰=beliefの原義は“ありのままに受け入れること”だが、日常にいながらこれを実践するのは簡単ではない。導かれて来たのなら、正門に入って信仰を始めてみようと考えるに至った。

後から聞いたところによると、この導きは母の胎にいるときには始まっていたらしい。その頃私は地方の片田舎にいた。ちょうどオイルショックの頃、経済は変動相場制へ移行、世界の人口が40億を突破、紀元後に生まれた人類の数は600億にも達したという。この混迷期、膨大な人類の中、こんな片田舎まで神の導きが届いていたとは想像もしなかった。

その後部活に勤しむ学生時代を送った、おかげで受験に失敗した。地元の漁船で働きたかったのだが、とにかく大学行けといわれた。なんとか進学、大学では物性物理を学んだ。東京で就職し経営学を学んだ。時代がそうさせたかのように科学進歩と経済成長を業としてきた。教会は縁遠い人生と思っていたが、実はここに神の導きがあったとは想像もしなかった。

妻と出会ったのは大阪にいた時だった。キリスト教の学校に通っていたのは知っていたがあまり気にしなかった。その後子供が産まれ、S幼稚園に通い、教会に通い始めた。このあたりでやっと導きに気付いた。

ずいぶん遠い所から一気に導かれたな、と思ったが、神様の大いなる慈愛に比べればこの程度はなんと小さなものだったのだろう。もしくは、これまでは目を見開いていなかっただけなのかもしれない。

今ここで洗礼にあずかり、キリスト者としての一歩を始められることに感謝します。