「すべてのことは時にかなって美しい」

私が初めてキリスト教に触れたのは、生まれた時から同居していた祖父母のお祈りだとおもいます。祖父母は、熱心なクリスチャンで、幼いころから食前の祈りや月に一度、牧師先生や友人を招いて家庭集会をしていたことを今でもよく覚えています。

キリスト教保育のS幼稚園に通い、神様が大好きだった幼少期から、卒園後も教会学校へ通い、幼稚園からの仲間に会えるのが毎週楽しみでした。しかし中学生になると、神様って本当にいるの?という不信感を持ち始めたこと、また教会に通うことが恥ずかしくなったのもこの頃からでした。

S幼稚園の先生になりたくて、キリスト教保育の専門学校へ通いました。礼拝の雰囲気や、讃美歌を歌って心が穏やかな気持ちになるのは好きでしたが、でも、どんなことも神様の導きと言われることに納得出来なかったこと、神様がいるのに、悲しい思いや辛い生活の中にいるひとがいることなど、キリスト教の教えを、素直に受け止められない自分がいました。こんな私がキリスト教保育をすることができるのか、とても迷いました。就職するときに、思い切ってこの想いを園長に話してみました。「私は、神様のことを信じきれません。それでも、先生になっていいですか?」すると、笑って「そういう先生がいてもいいじゃない、でも、子どもたちと同じように神様の声を聞く耳を持って過ごしなさい」と言ってくださいました。あれから、5年が経ち、今こうして受洗を前に準備をしていることに驚くと共に、これまでのことを思い返すと、今日までのことも、神様の計画のうちのことだったのだと思わずにはいられません。

子どもたちのそばで、神様に心を向けて過ごす生活。少しずつ、少しずつ思いが変わっていきました。今までずっと当たり前だったことを、子どもたちと一緒に感謝し、これまで気づいていなかった恵みや、歓びをたくさん感じました。わからないことや困ったことを神様にお祈りをして何度もお話ししたこと、それらすべてのことが、私の中でとても心地よく、神様の声を聞く耳を持っていた幼いころのように、受け止めることができました。悲しくて悔しくて、どうしようもない時、子どもたちや、共に働く先生の祈り、また礼拝の御言葉や賛美歌の歌詞に心救われたこともありました。頭が固くて、妙にプライドの高い私ですが、柔らかい心の子どもたちと過ごす中で、又様々な出来事を通して、神様が私に蒔いてくださる種が、育くまれたように思います。イエス様が子どもたちを大事にされている意味も分かったような気がします。「信じられない」と言ってきたことを、「信じたい」と心から思うようになりました。それは、私にとってとても大きな変化でした。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」 伝道者の書3:11(新改訳)

信じることと、受洗することをイコールで考えられず、こんな私がクリスチャンになっていいのか、自分の信仰を自分で信じることができずにいましたが、唐澤先生と学びの時を持つ中で、神様と繋がって、見えない印をいただいて、歩んでいくことの喜び、またそれはこれから先も、私が不安や迷いの中に在るときも、イエス様と繋がっているということが、大きな支えになると思いました。イエス様が待っていて下さるこの扉を、今度こそ開けてみようと決心しました。これから先も、迷いや不安、悲しみに襲われる時も、今、この時の気持ちをこれからも忘れずにいられますように。信仰生活を送っていくこと、子どもたちと大好きな礼拝を守り、これからも’神様の声を聞く耳’を持って、生きて行くことができますように。そしてこの想いを通して、神様の大きな愛や、赦しを、子どもたち、そして隣人に伝えていけたらと願います。今日までのすべての出会いと、出来事、神様の恵みに感謝し、これからの新しい信仰生活に、希望を持って歩んでいきたいです。