2022年1月2日礼拝説教要約「わたしについて来なさい」マルコ1:14-20
「わたしについて来なさい」。2022年最初の礼拝に、ガリラヤの漁師4人がイエス様の弟子に招かれる物語が与えられた。マルコが描く漁師たちの召命物語はとても衝撃的だ。マルコによれば、ペトロたちはイエス様と初対面にも関わらず、しかも、何の奇跡を目の当たりにしたわけでもなく、ただ「わたしについて来なさい」という招きに、「すぐに網を捨てて従った」というのだ。
そんなことがあるだろうか? なぜペトロたちは「すぐに」従ったのだろうか? イエス様が特別魅力的だったからか。彼らは漁師からの転職を考えていたので、ちょうどいいタイミングだったのかなどと、私たちはあれこれと彼らがすぐに従った理由を考える。ルカは、マルコの物語を知りつつ、全く違う召命物語としている(ルカ5章参照)。ルカの召命物語では大漁の奇跡が描かれ、それからペトロたちが招かれるという話になっている。その方が納得できる。しかし、だからこそマルコのこの「すぐに」従った弟子たちの姿がとても不思議な驚きとして私たちに迫ってくるのだ。
10年以上前、オリーブの会を初めたばかりの頃、のちに洗礼を受けられたHさんが、ペトロたちがすぐに従った理由を尋ねられた時「イエス様の言葉に力があったからですかね」と答えられた。聖書を読み始めたばかりのHさんの読み解きに衝撃を受けた。それこそマルコが告げようとしたメッセージを、そのポイントをずばり言い当てているように思ったのだ。
「わたしに従いなさい」という招きの言葉にペトロたちが、「すぐに網を捨てて従った」のは、「イエス様の言葉に力があったから」ということだ。今日の箇所で考えるなら、理由はそれしかないように思う。そして、「すぐ」という言葉は、マルコにとって大切な言葉でもあるのだ。「すぐに従う」というのは、マルコ福音書の大事なメッセージなのだ。
信仰とは、とってもシンプルで、イエス様が「わたしについて来なさい」(直訳:「さあ、わたしの後ろにきなさい」)という招きに応えて、イエス様の後ろについて、イエス様についていくこと、イエス様の背中をみながら、イエス様と一緒に人生の旅をすることに他ならない。
「私たちは若いから」、「忙しいから」、「年をとり過ぎたから」と主の招きの前に色々な言い訳を用意できることをカール・バルトは指摘した。私たちは「すぐに従う」ことはなかなか出来ない。さりとて時間が経てば従えるということでもない。やはりその「時」を逃しては従えないということをマルコは「すぐに」という小さな言葉を用いて伝えたかったのである。
私たちはしばしば信仰の決断をする場面で、判断してしまうことが多い。判断とは正しいか否かなど「ジャッジ」することであり、決断とは他の選択肢を捨てることである。私たちはしばしば「ジャッジ」する。神の言葉を、主の招きを、聖霊の導きを……。
新しい年、「わたしについて来なさい」と招かれた。ペトロたちは、この後、完全に従ったわけではない。失敗もした。イエス様を裏切りもした。でも、彼らは招きに応え続けた。迷うことの多い時代に、「わたしについて来なさい」と確かな呼びかけがあることは幸いなことだ。この招きに応えていこう。