カンバーランド長老キリスト教会国立のぞみ教会 東京都国立市にあるプロテスタントのキリスト教会です

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  • 250413_「闇に響く主の言葉」マタイ27:32-56

     主イエスが十字架の上でただ一度だけ発せられた言葉、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。これは福音書の中でも最も重く、深く、胸に迫る叫びである。主の周りには「神の子なら降りてこい」と嘲る声が満ちていた。イエスは沈黙を守られていたが、最期にこの絶叫を発せられた。しかもそれは、神の子と呼ばれる方の口からであるがゆえに、私たちの心を大きく揺さぶる。

     しばしばこの叫びは、詩編22編の引用であるとされる。確かに、詩編の冒頭と一致し、そこから神への信頼と賛美へと展開することから、イエスはこの詩を祈っていたのだと解釈される。しかし本当にそうだろうか。もしそうであるなら、福音書記者はそのことを明確に書き記したはずである。記されたのは、ただこの一言だけであった。

     イエスがあの十字架の上で叫ばれたのは、神への詩的な祈りではなく、魂の底からほとばしる絶望の声だったのではないか。「神の子なら…」と求める人々の言葉、あるいは荒野で悪魔が「神の子なら…」と試みた言葉に抗するように、主は沈黙を破って叫ばれた。この叫びは、まさに私たちの「なぜ?」という問いと響き合う。

     理不尽な出来事、不条理な苦しみの中で、私たちもまた叫びたくなる。「神はなぜ沈黙されたままなのか」「祈っても届かないのではないか」。そうした時、主イエスご自身がそのように叫ばれたのだと知ることが、どれほどの慰めと希望となることだろうか。

     マタイはこの出来事を、天地の変化と共に描く。真昼に全地が暗くなり、主の死と共に神殿の垂れ幕が上から下まで裂けた。それは、もはや神と人との間に隔てがないことを示している。そしてローマの百人隊長が、「本当にこの人は神の子だった」と告白する。救いは、ユダヤ人だけでなく、すべての人に開かれている。

     旧約出エジプト記において、神は「民の叫びを聞き、痛みを知った」と言われた。今、イエス・キリストはその神の姿を明らかにされる。叫びの中に降り、人の痛みのただ中に立たれる方。それが私たちの主である。

     だからこそ、「陰府にくだり」と信条にあるように、主は神の不在とされる場所にまでくだり、なお私たちと共にいてくださる。いまや、神の光が届かないところはない。イエスの叫びは、深い絶望の中にあってなお、「闇に響く希望の言葉」なのである。

     この叫びを、「パッション=受難」の言葉として私たちは受けとめたい。聖書が語る「憐れみ(コンパッション)」とは、神が高いところから同情してくれるということではなく、神ご自身が苦しみの只中に降りて来られることだ。イエスは他者と共に苦しまれる神として、あの十字架の上で私たちの叫びを引き受けてくださった。

     この受難週、主の叫びに耳を傾けたい。「なぜ」と問うことを恐れず、その問いを祈りとして差し出してよい。その叫びを、神は確かに聞かれる。垂れ幕は裂かれた。道は開かれている。インマヌエル——神が共におられる。その恵みの中を、私たちもまた歩んでいこう。

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