カンバーランド長老キリスト教会国立のぞみ教会 東京都国立市にあるプロテスタントのキリスト教会です

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  • 250511_「何を信じて生きている?」ガラテヤ2:15‐3:6

    ガラテヤ2章16節の翻訳は、聖書協会共同訳で大きく変化した。新共同訳では「キリストへの信仰によって義とされる」とされていたが、聖書協会共同訳では「キリストの真実によって義とされる」と訳される。原文はどちらにも訳せるが、後者の訳をとることで、私たちの信仰の在り方そのものが問われる。「信仰によって」と言うとき、どうしても私たちの側の信じる力、信仰の大きさが問題となりやすい。だが「キリストの真実によって」と訳せば、主体はキリストご自身となる。十字架に至るまで忠実であられたキリストの真実が、私たちを義とするのだ。

    信仰とは、私たちの行いや心のあり方ではなく、キリストの真実に身を委ねること。福音の根拠は、私たちの内ではなく、神の側にある。このことは、私たちが信仰に揺れる時にも希望となる。「私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる」(Ⅱテモテ2:13)。この御言葉はかつてブラジルで石塚先生と語らう中で、先生を支えている聖句として教えてもらったものだ。以来、私も自らの弱さや不完全さに落ち込む時に、この聖句に励まされ、支えられている。

    パウロは「私はキリストと共に十字架につけられている。今生きているのは、もはや私ではない。キリストが私のうちに生きておられる」と語る(2:20)。自分の正しさに生きていた彼が、ダマスコ途上での出会いを通して砕かれた。その体験こそが、キリストに生かされる新しい命の出発点となったのだ。

    私たちもまた、自分の正しさや努力によって自分を支えようとしがちである。福音に生かされているはずが、いつのまにか「条件付きの救い」へとすり替えてしまう。そして現代における律法主義の一つが、「自己責任」という考え方であろう。成功は自分の努力の証、失敗は自己責任。だから助けを求めることは恥、他人にも厳しくなってしまう。

    しかし、神の恵みはそうした「自分の義」の世界には入り込めない。パウロは言う。「霊によって始まったのに、なぜ肉によって仕上げようとするのか」。信仰とは、始まりから終わりまで、神の真実に委ねることなのである。

    それは人生の意味や価値においても同じである。生きる楽しみを失うような試練の中で、「自分の生の意味は何か?」と問い直す方もいる。しかし、その問いの先に福音がある。アニメ「アンパンマン」の主題歌が語る「なぜ生まれ、何をして生きるのか」という問い。私たちはどう答えるだろうか? パウロはこう答える。「私が生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を捧げられた神の子の真実によるのです」。

    人生の価値は、自分の活動や成果によって定まるものではない。キリストが今も私のうちに生きておられる。その真実が、人生の確かな土台である。詩編127編も語る。「主が家を建てなければ、建てる者の労苦はむなしい」。自分の義や努力に頼る人生ではなく、キリストの真実に基づく人生。それこそが、決して崩れない家なのである。

    「私は神の恵みを無にしない」。この一言が、私たちの信仰の核心である。揺れ動くとき、弱さの中にあるとき、この言葉に立ち返ろう。キリストの死が、私のためであったことを忘れず、今日もまたこの恵みに立って歩み出していこう。

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