パウロが獄中から記した「フィリピの信徒への手紙」は、しばしば「喜びの手紙」と呼ばれている。常識的に考えれば、投獄という不自由の極みにある中で「喜び」を語るなど理解に苦しむが、そこにこそ福音の本質があるとパウロは語る。
「私に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを知っていただきたい」(1:12)と彼は記す。投獄という事態が、福音の障害ではなく、むしろ推進力になったという逆説である。この「前進」という言葉には、軍隊が密林を切り開き進軍するという意味が込められている。つまり、福音は困難のただ中においてさえ、道なきところに道を拓いて進んでいくということだ。
この喜びは、単なる楽観主義ではない。福音に生きることの中心に「キリスト」があるからこそ、投獄や苦難さえも福音のために用いられていると信じることができる。その確信がパウロの喜びの源泉である。
香港中会の牧師であったウィリアム先生の証しもまた、「福音の前進」を体現するものであった。香港の政治的弾圧の中で、信仰と正義に基づき非暴力の抵抗を続けたウィリアム先生は、ついにはイギリスへと逃れ、2021年9月にコロナによって天に召されてしまった。しかし、キリストの福音は、エディンバラをはじめとする五つの地に新たな教会を生んだ。イギリスにある香港人教会のホームページには「正義を行い、慈しみを愛し、真実を語る」という信仰の決意が記されている。そこに福音の力がある。
この歩みは、パウロの「生きることはキリスト、死ぬことは益」(1:21)という告白と重なる。キリストを生きる者にとって、死さえも福音の完成へとつながる「益」となりうる。だからこそ、どのような境遇にあっても、キリストに従うことは喜びであり、使命なのである。
「福音の前進」とは、目に見える成果だけを意味しない。誰かを赦すこと、希望を捨てないこと、真実を語り続けること、どんな小さな従順もまた、福音の前進なのである。
16世紀のカトリック修道女であるテレサは「キリストには体がない」という詩をよんだ。キリストは今、私たちの手足を通して働かれる。キリストには体がない。今、地上には、あなたの体しかないのだ。ゆえに、「私にとって生きることはキリスト」と告白する者は、キリストの体としてこの世に派遣されている者にほかならない。
信仰とは、神の国の価値を選び取る「決断」である。時には、世の価値と衝突することがある。しかし、そこにこそ「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(1:29)という福音の逆説がある。苦しみの中でも、福音がなおも前進していると信じられる時、そこにはすでに恵みが宿っている。
今日、キリストは私たちの手でどのような業をなされようとしているのか。私たちはどこで、どのように「福音の前進」に参与していくのか。この問いを心に携えつつ、それぞれの持ち場へと遣わされていきたい。