カンバーランド長老キリスト教会国立のぞみ教会 東京都国立市にあるプロテスタントのキリスト教会です

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  • 250622_「天国市民ランナー」フィリピ3:10-4:1

    パウロが獄中からフィリピの教会に宛てて書いたこの手紙は、彼の晩年の信仰告白であり、ある意味で人生の総決算ともいえる言葉が綴られている。その中でも今日取り上げるのは、「なすべきことはただ一つ」という言葉である。あれもこれもではなく、ただ一つ。パウロのシンプルな言葉には、信仰者としてのぶれない姿勢がにじむ。

    「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けて、目標を目指して走る」と語るパウロの姿は、まるでランナーのようである。実際に彼は他の手紙でも信仰を「走ること」にたとえている(Ⅰコリント9:24以下)。しかし注意すべきは、ここで語られている「賞」が人間の努力で得る報酬ではないということだ。パウロは律法による義を求める者たちを「あの犬ども」とまで強く否定している。彼にとって「賞」とは、キリスト・イエスに捕らえられた者が最後まで走り抜いた先に与えられる恵み、いわば「完走賞」なのである。

    私自身、マラソンを走る者として「完走賞」に重なる思いがある。それは優勝者だけでなく、すべての完走者に与えられるもの。神の招きに応えて生きた者に、神ご自身が「よく走った」と迎えてくださる。それがパウロの言う「賞」なのである。

    Ⅱテモテ4章には、「信仰を守り抜いた」と語るパウロの晩年の言葉がある。これは、すでに完成された者の言葉ではなく、キリストに捕らえられた者として、今なお走っている者の言葉だ。救いを受けて終わりではなく、そこから新しい人生が始まるのだ。

    ヘブライ人への手紙12章には、「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめて走ろう」とある。この「見つめて走る」という信仰の姿勢は、フィリピ書2章で語られた「キリストの心を心とせよ」(2:5文語訳)という呼びかけと響き合っている。十字架の死に至るまでへりくだられたキリストの心を自らの心とする生き方。それが、キリスト者の目標である。

    現代を生きる私たちは、利己心や虚栄心が支配する世の中にあって、しばしば「十字架の敵」として歩んでしまいがちである。地上の価値観に囚われてしまうことがある。しかしパウロは、「私たちの国籍は天にある」と語った。これは現実逃避ではなく、地に足をつけながらも天の市民として、キリストを見つめて生きるという姿勢だ。

    私たちの信仰の歩みは途中で転んでしまうこともある。立ち止まってしまったり、道に迷ってしまったりすることもある。しかし伴走者なるキリストが共にいてくださる。礼拝はそのキリストに心を向け直す時間であり、私たちが再び走り出すための整えの場である。私たちはこの礼拝から、それぞれの生活という走路へと送り出されていく。

    フィリピ3章21節にはこうある。「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」。この言葉こそ、信仰の旅路の果てに待つ確かな希望である。私たちの力によらず、キリストの復活の力によって、私たちは栄光にあずかる。その時、私たちは「よく走った」と言っていただけるのだ。

    だからこそ、今ここを生きる私たちも、「なすべきことはただ一つ」——主を見つめ、信仰の道を国籍に天に持つ者として走り続けていこう。

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