カンバーランド長老キリスト教会国立のぞみ教会 東京都国立市にあるプロテスタントのキリスト教会です

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  • 250727_「授けられた祝福を告げる」民数記23:1−12

    先週は13章、12人の偵察隊が神に約束された「乳と蜜の流れる地」カナンを視察し、帰還した場面が与えられた。その後の章には、モーセの指導に対する反乱や、兄アロンと姉ミリアムの死、水を求める民に対してモーセが神の指示に反して岩を打った「メリバの水」の事件などが描かれる。これによりモーセさえも約束の地に入ることができなくなる。重苦しい40年が経ち、ようやく民はモアブの平野、ヨルダン川東岸にたどり着く。

    そこで登場するのが、今日の箇所にあたるバラムとバラクの物語である。バラクはモアブの王で、イスラエルの進軍を恐れ、戦で勝てぬなら呪いで彼らを排除しようと考える。そこで、遠く600km離れたペトルの地に住む著名な呪術師バラムに呪詛を依頼する。バラムは周囲の国々にも名の知られた占い師であり、考古学的にもその名が刻まれた碑文が発見されているという。

    こうして23章、いよいよバラムがバラクの前で語る。祭壇が築かれ、動物がささげられると、神はバラムの口に言葉を授ける。その第一の託宣は、驚くべきことに「祝福の言葉」であった。「神が祝福された民を、人が呪うことはできない」と語られたのである。

    この物語は今の私たちに問いかける。私たちの口から語られる言葉は、呪いか祝福か。現代社会には、ヘイトスピーチや中傷、対立と排除の言葉があふれている。ネットや選挙の場でも、人々は不安と恐れから他者を呪いの対象としてしまう。しかし、バラムのように、神の祝福を知る者は、「主が祝福された者を呪うことはできない」と語る者として立たされるのである。私たちは誰しも敵意や憎しみを抱えて生きている。傷つき、赦せず、怒りを覚えることもある。しかし、そんな私たちのうちにも、神は祝福の言葉を託そうとしておられる。

    このことを黙想している時に、私は主イエスの十字架と復活を思った。あの主イエスの十字架は人間の「呪い」が極まった出来事である。イエスは「神に呪われた者」として木にかけられた。しかしその十字架を、神は救いと祝福の中心とされた。呪いに対し、イエスは「父よ、彼らを赦してください」と祈られた。その祈りに、神は復活という応答を与えられたのだ。

    この十字架と復活を通して、神の祝福が人間のすべての呪いを覆い尽くすことが示されたのである。私たちは今、主イエスを通して、祝福の言葉を授けられている。小さく傷つきやすい私たちであっても、神はキリストによって祝福を与え、その祝福を分かち合う器として私たちを用いられる。

    パウロは「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません」(ローマ12:14)と語った。これはキリストの愛に根ざす招きである。この世界は混沌とし、人が人を呪い合うような現実もあるが、それでも神はこの世界を「よし」と言い、祝福しておられる。だから私たちもまた、祝福を語る者として世に遣わされていくのだ。恐れではなく、神の祝福によって生きる者として、バラムのように、今週も主に授けられた祝福の言葉を携えて歩もう。

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