カンバーランド長老キリスト教会国立のぞみ教会 東京都国立市にあるプロテスタントのキリスト教会です

  • 〒186-0002
    東京都国立市東3-15-9
    TEL&FAX 042-572-7616

    お問い合わせ

  • 説教の要約「分けたら増えた」マルコ6:30-40

    2022年1月23日礼拝説教要約「分けたら増えた」マルコ6:30−44

    イエス様の弟子は大変だ。派遣された働きを終えた弟子たちは、イエス様の配慮から人里離れた所へ行って、しばらく休むはずだった。ところが、舟に乗ってでかけていくのが人々の知るところなり、大勢の群衆が、一斉に駆けつけ、彼らより先回りして待ち構えていたとうのだ。その数、男5000人!

    私が弟子の一人だったらネガティブな感情が湧き上がって来たに違いない。しかし、主イエスは「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(34節)。群衆には、様々な思い煩いがあったのだ。それをどうしたらよいのか分からない。羊飼いがおらず迷っている羊のようにイエス様の目に映った。「深く憐れむ」とは、自らの腸が痛むほど、人の痛みに深く共感することを意味する。イエス様は群衆の痛みをご自分の痛みとして覚えられ、いろいろと教え始めたのだ。

    弟子たちにとっては「休みはどうなったのか?」と思ったことだろう。熱心に教え続ける主イエスに、頃合いを見計らって、イエス様に対して「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」という。すると主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と命じられたのだ。弟子たちはすかさず「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と拒否する(1デナリオンは、1日分の賃金。日当1万円とすれば200万円)。そんな金を弟子たちは持っていない。弟子たちの手元にあるのはパン5つと魚2匹のみだ。それでもイエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われる。

    弟子というのは、イエス様が命じられることと不十分に思える自らの現実の間で葛藤する群れのことだ。5つのパンと2匹の魚ですべての人に食べ物を与えることは不可能だ。しかし、大事なことは主イエスにとってそれは不可能ではないということだ。

    弟子たちはイエス様に命じられたように人々を50人、100人という組に分けて座らせた。一体何が始まるのか? 弟子たちにも分からなかった。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」。弟子たちは群衆の間をパンと魚を配り歩きながら、不思議な食卓を体験した。5つのパンと2匹の魚しかなかったはずなのに、配れている。主の祝福の中では、5つのパンと2匹の魚で充分足りたのだ。いや、有り余るほどになった。

    何が起こったのか? 私には分からない。でも確かなことは、この奇跡の食事は、無から起こったのではないということだ。イエス様が何もないところから手品のようにパンを出したのではない。石をパンに変えたのでもない。弟子たちの持っていたパン5つと魚2匹が祝福されて用いられたのだ。

    イエス様が弟子たちに「食べ物を与えなさい」と命じられてことは、命の問題だ。弟子たちがチャレンジされたことは、群衆の命に関わる問題だ。私たちの間にも命の問題がある。肉の餓えがあり、魂の餓えがある。その課題はあまりも大きい。私たちは問題の大きさにたじろいでしまう。でも、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と主は弟子たちに命じられる。私たちは主から受け取った祝福を分かち合うために人々の間に遣わされていくのだ。

    TOP