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  • 説教の要約「信仰のない時代に」





    2022年2月20日礼拝説教「信仰のない時代に」マルコ9:14-29
    「『できれば』というのか。信じる者には何でもできる」(23節)。汚れた霊に取りつかれた息子を抱える父親に言われたイエス様だ。ちょっと戸惑う言葉だ。

    息子の癒しを求めた父親はイエス様に対して「おできになるなら」と願った。それは自然なことだったと思う。父親は息子が子どもの頃から何度も癒しを願ってもかなえられない経験をしてきたのだ。他者に全幅信頼を簡単に寄せることなどはもうできない。父親が「おできになるなら」と言ったのは、また駄目だった時のショックから自分の心を守るために、彼が自然と身に着けた自己防衛的な願い方なのかもしれない。

    しかし、その父親にイエス様は「『できれば』というのか。信じる者には何でもできる」と迫ったのだ。すると多くの思いを抱えていたに違いない父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ。「なぜ」と思う。でも、ペトロが弟子になった物語もそうだったが、イエス様を信じるという行為は、こういう説明がつかない、ある種の飛躍的な行為であることをマルコは告げているのだ。

    私たちがイエス様と出会うとか、イエス様を信じるっていうことを考えてみても、全部が理路整然と答えられるわけじゃない。「信じる」っていう行為には、時に「飛躍」がある。神様も、イエス様も目に見えない。聖書が神の言葉だとか、約束だというのも「説明されて」、「納得して」、「全部わかった」から私たちは洗礼受けて、クリスチャンになったわけでもない。それでも「わたしは信じます」というところに「信仰」の世界が始まるし、そこには「飛躍」があるのだ。

    「信じます」と言いながら、「信仰のないわたし」と父親はみずからのイエス様に対するありようを正直に告白した。「信じます」と飛躍しようとする自分と、「信じきれない自分」が、まさに「わたし」という中に混在しているということだ。この父親の姿は、わたしたち信仰者の「ありのまま」の姿だ。わたしの姿だ。私たちも「信じます」と告白しつつ「信仰のないわたしを助けてください」って叫ぶ。相反するものを同時に抱えているのが私たちのありのままの姿に他ならない。

    「信じる者には何でもできる」。イエス様が言われた「信じる者」とは「信じる者」とは誰のことか? 疑いを常に抱える私たちをこの「信じる者」に重ねるのは難しそうだ。実際、このイエス様の言葉は、「「信じる者」であるこのわたしには何でもできる」というイエス様自身の宣言のような意味としても読める。「信じる者は何でもできる」。それは主イエスの「十字架と復活」のゆえに語られ、また信じることのできる言葉なのだ。

    私たちの絶望の最たるものは「死」だ。父親が翻弄されたのも息子を苦しめるのも「死の力」だ。その力の前に自分たちの無力さを突きつけられる……。弟子たちも、父親も、そして私たちも。多くの祈りの課題、癒しを求める祈りが私たちの教会にある。それを前に、わたしは自分の無力さにたじろぐばかりだ。

    そのわたしにとって「『できれば』というのか。信じる者には何でもできる」との主の言葉は、「わたしにまかさせなさい。わたしを信じなさい」というシンプルな招きの言葉に聞こえてきた。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」というイエス様の言葉は、とっても現実的な言葉としてわたしは迫ってくる。私たちは父親が叫んだように、「信じます。信仰のないわたしを助けてください」と信仰のない時代の中で祈るものでありたい!

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