2022年3月6日礼拝説教要約「生きている者の神」マルコ12:18-27
復活はないと言っているサドカイ派の人々と「復活」を巡って論争が起こった。論争と言っても、サドカイ派の人々は真剣に復活についてイエスの考えを聞きたいと思っているわけではなく、イエスを小馬鹿にするために議論をふっかけてきたのだ。
彼らはモーセの律法に記される「レビラート婚」を持ち出し(19節)、一つの仮説を根拠に尋ねてきた。律法に従って一人の女性を7人が妻としたら、復活の時は誰の妻となるのか? というのだ。復活などいう言説は律法に矛盾を引き起こす。モーセもそのようなことは語っていない。だから復活などはない。それがサドカイ派の結論だった。この問いは新しい問いということではなく、復活はあると考えていたファリサイ派との間でなされていた論争であった。ファリサイ派の人々は「長男の妻になる」という回答を出していたという。
この問いに対してイエス様は、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と言われた。大胆に換言してしまえば「アホか」ということだ。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」という答えも、そもそもサドカイ派の人々は天使の存在を否定しているので、イエス様が真剣に答えているとは思えない。そもそもイエス様の目前には十字架が迫っているのだ。神の御心に従い抜く戦いをされているイエス様が、机上の律法論争の質問に、同じ土俵に立って答えているようにはどうしても思えないのだ。
それでもイエス様は、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」とサドカイ派の人々が大事にしているモーセ五書から答えられた。この『柴』の箇所も復活について直接的に答えているわけではない。しかし、神はいかなる方であるかを語られているのだ! それは、アブラハムの神であったという昔の神、死んだ者の神ではなく、「アブラハムの神である」としてご自身を表される「生きている者の神」がおられる。イエス様はそう言われているのだ。
大事なことは、7人の兄弟とその女性のことではなく、いま生きているあなたが「神とどういう関係をもって生きるか」ということだ。いや、この私を、イエスを何者とするのか? イエスを認めないことにサドカイ派の人たちの最大の思い違いがあったのだ。
わたしの神学校の恩師である関田先生は、「わたしの生き方と関わりのない復活議論は無用である」とよく言われた。頭の中で論理が構築できるとか、知識として復活を理解したとしても、それは無意味だ。大事なことは、私たちが生きる者の神として、私たちに出会ってくださる方とどう生きるかだ。だから今日のこの論争の最後に、有名な律法解釈をめぐるイエス様の教えが続く。神を愛し、隣人を自分のように愛するように愛する。この律法に生きる。それが神との関係に生きることであり、その神との関係は死してもなお永遠に続くのである。それがイエス様の十字架と復活によって示されたことであり、私たちの生きる道なのだ。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われた主イエスは、神の力によって十字架の死を突き抜けて、私たちの希望の初穂となられた。この主イエスが「わたしはある」と言われる方として、わたしたちの人生で「生ける者の神」として出会ってくださるのだ。