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  • 250407_「裏切りのキス、貫かれる愛」マタイ26:47−56

    裏切りのキス、貫かれる愛」 マタイ26:47–56

    裏切りは、人の心に深い傷を残す行為である。とりわけ、それが親しい関係の中で起こったとき、その痛みはより深く、悲しみはより大きくなる。イエス・キリストが十字架に向かわれる最後の夜、弟子ユダの裏切りによってその歩みは決定的な局面へと進んだ。

    マタイは、ユダを「十二人の一人であるユダ」と記す。これは単なる裏切り者ではなく、イエスが祈り選び、共に旅し、奇跡と教えを分かち合った最も近しい弟子の一人であったことを示している。彼はこの夜、剣と棒を持った群衆を引き連れて現れ、「先生、こんばんは」と挨拶し、接吻をもってイエスを引き渡した。

    当時のユダヤ文化において、接吻は師と弟子の間で交わされる敬意と親しみの表現であった。ユダは、愛のしるしであるはずのその行為を、裏切りの合図として用いたのである。これは、外側の礼儀が内なる真実から乖離してしまった人間の悲しみの姿である。

    それでも、イエスはユダに「友よ」と語りかけられた。イエスがユダの裏切りを知っていたことは明らかである。それにもかかわらず、「友」と呼ばれた。これは皮肉やあきらめではなく、最後までユダを招き続けようとする愛の呼びかけであった。

    イエスの言葉「しようとしていることをするがよい」は、翻訳によっては「なんのためにきたのか」(口語訳)とも訳される。これはユダをもう一度呼び戻するイエス様の愛を思う。また聖書協会共同訳の訳では、イエスがユダの行為を神の御心の中に引き受けておられるという点が強調されているように思う。この言葉は、まさにゲッセマネでの祈り——「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように」——と深く結びついていると思う。

    イエスは、杯を避けることを願いつつも、それを飲み干す決意を祈りの中で固められた。その杯とは、人々の罪、見捨てられる痛み、そして十字架の苦しみである。ユダの裏切りも、弟子たちの逃亡も、その杯の一部として、イエスは受け止められた。

    だからこそ、剣を抜いて抵抗しようとした弟子に対して、イエスは「剣を納めなさい」と語られた。神の国は、武力や力によってではなく、赦しと愛によって到来するものである。イエスは、その道を自ら選び取られた。

    旧約のヨセフの言葉、「あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変えられました」は、イエスの歩みにも重ね合わせて読むことができる。人が悪をなすときにも、神はその中に救いの道を開いてくださる。

    「友よ」というイエスの呼びかけは、ユダだけでなく、裏切り、逃げ去っていった弟子たち、そして今を生きる私たち一人ひとりにも向けられている。たとえ罪に陥ったとしても、信仰に揺れがあったとしても、主は今も語りかけられる。「その杯は、あなたのために飲み干した。だから、あなたはなお、わたしの“友”なのだ」この呼びかけに応えて、私たちもまた、主の後を歩んでいく者とされたい。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。私たちは自分の忠実さによって選ばれたのではなく、主の愛によって招かれた存在なのである。

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