「走り出した先に」マタイ28:1−10
今年のイースターは4月20日。これは移動祝日の中でも遅い方である。日付は毎年異なるが、私たちは「今日はイエスさまの復活を祝う日」と知った上で礼拝に集っている。子どもたちは朝から野外礼拝でエッグハントを行い、私たちもイースターの準備を整えてこの日を迎えた。しかし、最初のイースターの朝、マグダラのマリアともう一人のマリアは「今日は復活の日だ」と思って墓へ行ったのではなかった。
彼女たちは、イエスが十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫び、息を引き取られた姿を見届けていた。そして遺体が納められた墓の前に座り続けていた者たちである。男の弟子たちが皆逃げ去る中、最後までその死に立ち会ったのが彼女たちだった。そんな彼女たちが、安息日が明けた日曜の朝、「墓を見に行った」とマタイは記す。
マタイによれば、彼女たちが墓を訪れた時、大きな地震が起こり、天から降った主の使いが石を転がしてその上に座った。天使は語る。「恐れることはない。あの方は、ここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ」と。この「ここにはおられない」という言葉こそ、復活信仰の核心である。墓、すなわち死を記念する場所に、イエスはおられなかった。神が死のままにはされなかったという知らせが、最初の福音である。
墓とは、もともとギリシア語で「記念碑(メモリアル)」を意味する言葉に由来する。イエスの墓が記念していたのは、「神の国」を語り、愛に生きた方が無力に殺され、力ある者たちの論理が勝利したという現実であった。しかし、神はその墓を空にされた。人間の憎しみと暴力によって十字架につけられたイエスが、そのまま記念されることを神はよしとされなかったのである。
天使の言葉を受けて、マリアたちは「恐れながらも大いなる喜びにあふれて」、弟子たちのもとへと走り出す。恐れと喜びが混在するこの感情は、まさに信仰の現実を物語っている。すべてを理解したわけではない。不安も疑いも残っていたに違いない。それでも彼女たちは走り出した。そして、その「走り出した先に」、イエスが立っておられた。彼女たちは主の足を抱いて礼拝した。理解ではなく、行動の先に出会いがあったのだ。
今日、洗礼を受けるYさんの証もまた、この「走り出した信仰」の物語である。人生の深い試練の中で初めて教会に足を踏み入れた。牧師からの励ましのメールにあった「インマヌエル——神が共におられる」という言葉も「私の名前はインマヌエルじゃないし」と理解できなかった。それでも礼拝を重ね、少しずつ信仰の歩みへと導かれてきた。そして今日、洗礼を受け、新たな歩みを始める。まさに「走り出した先に」主がいてくださったのである。
天使は、「恐れるな」「行って告げよ」と語った。復活の知らせは、受け取るだけでなく、伝える使命を伴う。わたしたちもまた、イエスが生きておられることを、日常の中で証ししていく者として招かれている。牧師として働く中で、私自身、初めて「天使のような役割を担う」自覚を持たされた。復活の知らせを、語り、祝う者としての使命である。わからない中を、それでも一歩踏み出していく。その走り出した先に、主は立っておられる。