カンバーランド長老キリスト教会国立のぞみ教会 東京都国立市にあるプロテスタントのキリスト教会です

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  • 250504_「その福音、誰から聞いたの」ガラテヤ1:1−12

    ガラテヤ書をある牧師は信仰者にとっての「北極星」だと表現した。信仰者が人生の航路を定める際に、常に立ち戻るべき方角を示してくれる書簡だからである。そして今日の礼拝は、国立のぞみ教会の宣教開始64周年にあたる。改めてこの書簡を「北極星」のように見上げ、私たちのこれからの航路を見定めたい。

    パウロは出だしから怒っている。「キリストの福音」の根幹に関わる問題が生じていたのだ。当時のガラテヤの教会には、パウロが伝えた福音を曲げ、再び「割礼」や律法の実践によって救いを得ようとする動きがあった。ユダヤ人にとって割礼は、アブラハムと神との契約のしるしであり、アイデンティティそのものであった。それを否定されることは、彼らにとって信仰の根本を覆されるような痛みであり、怒りを覚えた出来事だった。

    イエス様が語られた「放蕩息子のたとえ」に登場する兄の姿を思い起こす。放蕩を尽くした弟が帰ってきたとき、父は無条件に彼を迎え入れた。しかし兄はそれに怒り、受け入れられなかった。この兄の怒りは、ユダヤ人の中にあった「福音への反発」とも重なる。律法を守り、真面目に信仰を生きてきた者にとって、「ただ信じるだけで救われる」という福音は、理不尽にすら感じられた。都合のよすぎる愛、無条件の受け入れに、私たちもどこか戸惑う。しかし、それが神の愛であり、福音なのである。

    パウロ自身もかつては、律法に従って神に近づこうとした者であった。しかし、ダマスコ途上で復活のキリストに出会い、自らの「正しさ」が崩れ去った。「自分は神に従っている」と信じていたその道が、実は神を迫害する道だったと知ったとき、彼は「啓示」を受けたのだ。それは、自らの努力によってではなく、神の側から与えられた真理の光であった。啓示——覆いが取り去られ、見えなかったものが見えるようになる。その出会いが、パウロの福音理解の土台である。

    この福音は、「正しくあれば救われる」という条件つきではない。逆に「正しくなければ罰せられる」という信仰でもない。むしろ、神と和解しているという事実に立つ生き方である。努力ではなく、受容。頑張るのではなく、委ねること。そこに、信仰の本質がある。

    けれども私たちは、どこかで「こうあるべき」という思いに縛られてしまう。クリスチャンとして、牧師として、親として、社会人として——「こうあるべきだ」という義務感が、知らぬ間に自分自身を裁き、他者にも重荷を負わせてしまう。「割礼」は求めなくとも、「理想の信仰生活」という名の律法が心を縛るのだ。そして、その剣は自分にも向いてくる。「自分はダメなクリスチャンだ」と、つい口にしてしまう。

    しかし、福音はそのような自己否定から私たちを解き放つ。「あなたは、すでにキリストのゆえに神と和解している」。その事実に立ち返るとき、私たちは本当の意味で自由になる。苦しみの中にあっても、挫折や失敗を抱えていても、それでもなお神の愛にとどまり続けること。それが信仰であり、それが永遠の命を生きるということである。

    「その福音、誰から聞いたのか」。牧師からか、友人からか、あるいは人生の痛みの中で出会ったのかもしれない。しかし、最も深いところでは、キリストご自身が私たちに語りかけてくださった。その恵みを曲げずに、宣教64年のこのとき、もう一度私たちも原点に立ち返りたい。「別の福音」ではなく、ただキリストの福音に生きる者として。

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