カンバーランド長老キリスト教会国立のぞみ教会 東京都国立市にあるプロテスタントのキリスト教会です

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  • 250518_「どうして戻るのか?」ガラテヤ4:8−20

    福音に出会い、律法ではなくキリストの恵みによって義とされるという喜びに生きていたガラテヤの人々が、再び「律法の行い」に戻っていこうとする姿に対して、パウロは「途方に暮れている」と語る。のぞみ教会の命名の聖句「せん方尽くれど希望を失わず」と語ったパウロが、「途方に暮れている」と語る。パウロの落胆ぶりが分かる。

    ガラテヤの人々が再び奴隷となろうとしていたのは、ユダヤ律法そのものというより、「この世のもろもろの霊力」に逆戻りすることであった。つまり、この世界が当然とみなす「基本原則」——能力主義、成果主義、そして100点主義のような価値観——に縛られていくことに他ならない。

    これは、今日を生きる私たちにも響く問いである。私たちもまた、「いい子であること」「できる人間であること」「正しくあること」こそが生きる価値であるかのような「本来神ではない神々」に仕えていないか。それは私たち大人だけでなく、子どもたちの心にも深い影響を与えている。100点を取らなければならないというプレッシャー、できない自分を責める不安、クリスチャンとして十分でないと感じてしまう焦り——これらはすべて「律法の奴隷」となることと同じである。

    パウロは「神を知った」と語った後に、すぐさま「いや、神に知られたのに」と言い直す。この転換は重要である。信仰とは、私たちが神を選んだことではなく、神が私たちを選び、知ってくださったという事実に根差すのだ。ヨハネの手紙一が語るように、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、御子を遣わされた」。この神の愛に立ち返ることが、奴隷の道からの解放の鍵なのである。

    私たちは無意識のうちに、「まだ何かが足りない」と感じることがある。それは律法の霊力に囚われた「金持ちの青年」と同じ姿である。どれだけ真面目に信仰を歩んでも、「永遠の命を得るにはまだ何かが必要ではないか」と思わされてしまう。しかし、福音はその不安を打ち消す。「それでもクリスチャンか?」という問いに、「そうです、これでもクリスチャンです」と応答できるのは、キリストの真実によって義とされているという確信があるからである。

    パウロは「私のようになってください」と語る。信仰の道を歩むことの楽しさ、自由さ、解放の喜びを、ガラテヤの人々と分かち合いたいと願っている。そしてその背後には、「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私はもう一度苦しむ」との言葉がある。信仰とは、外側の模倣ではなく、内にキリストのかたちが少しずつ現れていく過程である。

    「どうして戻るのか?」という問いは、今も私たちに向かって響いている。律法による自己確証の道ではなく、神の愛と真実に根ざした福音の道を、再び選び直すようにと。神に知られ、愛されているというこの確かさに立って、私たちは今日も歩み出していく。もう私たちは私たちを縛り、不安に陥れる「もろもろの霊力」には戻らない。なぜなら、私たちはキリストにある幸福を知っているからである。

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