カンバーランド長老キリスト教会国立のぞみ教会 東京都国立市にあるプロテスタントのキリスト教会です

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  • 250525_「走っていたのに、誰が邪魔したのか?」ガラテヤ5:2−15

    「キリスト者の自由」という小見出しの箇所が朗読されたが、その表現は、宗教改革者ルターの著書のタイトルでもある。キリスト者であるあなたは自由であろうか? 私たちは信仰に生きる中で、「~してはいけない」「~しなければならない」といった規則に縛られるものだという印象を持たれている。牧師である私自身も、「お酒を飲んでよいのか」「ラーメンを食べるのか」といった素朴な疑問を投げかけられることがある。その背景には、「宗教=不自由」という社会的な先入観があるのかもしれない。

    しかしパウロは、「キリストは私たちを自由にされた」と力強く語る。その自由とはまず「律法からの解放」である。キリスト者はもはや、モーセ律法の細かな規定に縛られてはならない。にもかかわらず、当時のガラテヤの教会では「割礼を受けねばならない」という教えが忍び寄り、多くの人々がそれに惑わされていた。パウロはこれを厳しく非難し、「割礼を受けるなら、キリストは何の役にも立たなくなる」と述べる。つまり、再び律法に頼ることは、キリストの恵みを無効にし、信仰者としての根源を見失うことである。

    律法主義の担い手であったパウロ自身が、キリストによる一方的な恵みと解放を経験した。それは単なる理論ではなく、ダマスコ途上で彼自身が啓示として受けた生々しい体験だった。だからこそ、彼の福音理解は情熱と確信に満ちている。「義」とされるのは、行いではなくキリストの真実によってであり、その真実の中でこそ、私たちは神の前にすでに「良し」とされている。

    この自由は放任ではなく、愛の実践を可能にする自由である。パウロは「この自由を、肉の機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい」と語る(5:13)。ここに、自由と他者との関係が密接に結びついていることが示されている。自由とは、ただ好き勝手に生きることではなく、仕えることに自らを差し出す自由なのである。

    ルターもこのパウロの言葉に学び、「キリスト者はすべてのものの主人であり、誰にも隷属しない。同時に、すべての人の僕であり、誰にでも仕える」と記した。これは自由の逆説である。律法に縛られず、誰からも強制されず、しかし愛に突き動かされて隣人に仕えること。それこそが「信仰によって働く愛」(5:6)であり、律法の成就である。

    パウロの言う信仰は、アガペーによって命を吹き込まれた信仰である。神の愛に根ざし、突き動かされるようにして他者を愛する。そこにはもはや、割礼の有無など関係ない。重要なのは、私たちのうちに神の愛が証されているかどうかである。

    朝ドラ「あんぱん」でも、「自由」が大きなテーマとして扱われている。戦時下で自由を奪われていく中で、主人公の嵩くんが銀座の華やかな様子を描くデッサンを制作した。指導教官がその絵を見て「時代に逆行している。いいじゃないか」と語る場面が印象的だった。まさにキリスト者の自由とは、時代の価値観や流れに逆らってでも、キリストの恵みに生き、愛に生きることだ。

    「真理はあなたがたを自由にする」と主が語られたように、イエス・キリストという真理に従うとき、私たちは他者と比較される不安や、この世の価値基準から解放される。そして、自分らしく、もっともらしく生きる自由を得る。キリストにある愛と自由を分かち合いながら、今週も歩んでいきたい。

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