カンバーランド長老キリスト教会国立のぞみ教会 東京都国立市にあるプロテスタントのキリスト教会です

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  • 250615_「イエスさまがいちばん」フィリピ3:2-9

    パウロは投獄され、自らの終わりを見据えつつ、フィリピの信徒たちに向けて手紙を書いている。その中で彼は、「肉を頼りにする者たち」に対して、激しい言葉を用いて警告している。律法を守ることで神に認められようとする律法主義への強い否定である。パウロは、かつて自分自身がその律法主義の申し子であったことを率直に認めつつも、今はそれを「キリストのゆえに損失」と見なすに至ったという。

    パウロの出自は、当時の社会において「親ガチャ」大当たりと言えるものであった。生粋のユダヤ人であり、名門ベニヤミン族の出身。律法においてはファリサイ派、その中でもガマリエルの門下生というエリートであり、さらに彼は教会を迫害するほど熱心な実践者であった。彼の生き方は、その時代における「成功者」のそれであり、多くの人が憧れるような「根拠ある自信」を持ち得た人生であった。

    だが、パウロは言う。「私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった」と。この転換は単なる思想の変化ではない。彼の誇りがすべて覆されるような、根底からの回心である。

    このことは、現代を生きる私たちにも通じる。親の経済力、学歴、社会的地位――そうした「根拠ある自信」を持つことができれば、どれほど安心できるだろうと願う人も多い。だが、それらはしばしば脆い。他者との比較によって成り立つ自信は、いとも簡単に崩れる。「東大生だ」と胸を張っても、東大の中では比較され、また自信を失う。優越感と劣等感の間を揺れ動く、もろい自信である。

    かくいう私自身も、高校時代当時の野球名門校で甲子園を夢見て生きていた。だが、夢が潰えたとき、心に穴があいた。アイデンティティの拠り所を失い、自分が何者なのか分からなくなった。目標が崩れ、自信も失った。ただ、中学3年生で受けていた洗礼があったからこそ、引退後、自然と礼拝に足が向いた。

    礼拝の場で、私は悩むことができた。ある時、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という聖書の言葉が、教会のノリ子先生から贈られた。その言葉は、まさに「キリストの真実による義」の実体験であった。自分が何をできるかではなく、何を成し遂げたかではなく、「存在そのものが愛されている」という宣言。それは根拠なき自信の根拠となった。

    この「根拠なき自信」とは、児童精神科医・佐々木正美氏が説くように、人が健やかに生きるために不可欠な基盤である。それは自分の力や業績に拠らず、ただ無条件の愛に支えられた自己肯定である。パウロが語る「キリストの真実による義」もまさにそれである。キリストが神に対して、そして人に対して誠実に生き抜かれた、その真実によって、私たちに義が与えられるのである。

    この義は、人間の努力や功績とは無関係に与えられる。キリストが十字架において、私たちの罪を担い、神の真実を貫いてくださったからこそ与えられる「義」。これこそが、パウロが「知りたい」と渇望したものであり、「すべてを損失と見なしてでも手に入れたい」と願ったものなのである。私たちもまた、それぞれの仕方でキリストに出会い、恵みに与った者たちである。

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