カンバーランド長老キリスト教会国立のぞみ教会 東京都国立市にあるプロテスタントのキリスト教会です

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  • 250810_「貧弱だからこそ」申命記7:6−15

    これまで民数記を通して、エジプト脱出後の神の民が荒野を旅する姿を見てきた。民は何度も神への信頼を失い、不平と恐れを口にし続けたが、それでも神は忍耐をもって導かれた。申命記はその続きにあたり、約束の地を目前にしたモーセが40年の旅路を振り返り、次世代に律法と契約を再確認させる「説教集」のような書である。

    7章では、なぜイスラエルが神の民として選ばれたのかが語られる。主は「あなたがたがどの民よりも少なかったから」選ばれたという。この「少ない」とは単に人数のことだけではなく、社会的・経済的・軍事的に弱い状態を意味する。新共同訳は「貧弱」と訳している。神は強く優れた者ではなく、もっとも弱い者を選ばれたのである。その理由は、ただ神がその民に「心引かれた」からだ。この言葉は創世記では恋い慕う感情をも表し、極めて人間的で情熱的な愛を意味する。しかし、イスラエルは美しくも強くもなかった。奴隷として虐げられていたその姿にこそ神は心を引かれ、「宝の民」とされた。

    人間の選びは力や能力に基づく。スポーツでも勉強でも、優れた者が選ばれる。しかしその競争はやがて国と国の争い、戦争にまで至る。だが神の選びは違う。弱く取るに足らない者を愛し、用いられる。それは神の愛のかたちであり、「偏愛」とも呼べる。貧しい者、虐げられた者に偏って注がれる愛である。そしてその愛は彼らをそのまま放置するのではなく、解放へと導く。

    8節は、神が愛と先祖への誓いのゆえに、奴隷の地からイスラエルを「贖い出した」と語る。「贖う」とは代価を払って自由にすることであり、神は自由へと解放するお方である。この揺るがない愛は「真実」と呼ばれ、今も変わらず弱き者に注がれている。主イエスの生涯は、この真実の神の姿を現した。イエスは罪人を招き、的を外して生きる者を贖い、自由にされた。その招きは今も響いている。

    カンボジア滞在中、私はトゥールスレン収容所を訪れた。1970年代、ポル・ポト政権下で多くの人々が拷問され命を奪われた場所である。もし自分が当時カンボジアで生まれていたらと考えると、胸が締めつけられる。同行した高校生が「ひどい」と言った時、フィリピンの青年は「日本人も戦時中に同じことをした」と語った。戦争や抑圧は過去の出来事ではなく、今も世界にあり、私たちの内にも同じ罪の根がある。

    それでも神は、そのように美しさのない者を「宝の民」として招かれる。この選びは同時に使命である。自らのためだけに愛を握りしめるのではなく、神の愛を世に映し出すことが求められる。申命記は、南ユダが偶像礼拝に傾き、神との契約を忘れた時代に編纂され、民に原点回帰を促した書であった。真の豊かさは神から与えられ、戒めに従うことこそ命であると告げる。

    この「今日守れ」という呼びかけはモーセの時代だけでなく、ヨシア王の時代、そして現代の私たちにも向けられている。ヨハネ15章でイエスは「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」と語り、「互いに愛し合う」使命を託された。

    私たちは日本社会でごく少数派である。しかしマジョリティになることが目的ではない。小さき群れとして神の力にすがり、愛を証しする。それこそが選ばれた者の歩みである。今日は平和主日である。私たちは今、何に心を引かれているのか。神の偏愛に生かされる者として、弱き者に向けられた神のまなざしをこの世界に示す歩みを続けたいのである。

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