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  • 「神の国の食卓」マルコ2:13-17

    2022年1月9日礼拝説教要約「神の国の食卓」マルコ2:13-17

     今年の正月は2年ぶりに親戚で集まった。小さい姪っ子や甥っ子もいてにぎやかな正月の食卓を久しぶりに囲んだ。食事を一緒にすることは、ただ腹を満たすだけではなく、私たちの人間関係を表す行為となる。誰と食事をするか、誰と飲みに行くかなど、それは私たちの人間関係、交友関係を示す。食事を共にすることは、大きなメッセージを持つ。

     「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(16節)。ファリサイ派の律法学者たちはイエス様の食事の交わりを問題視し、批判した。彼らは、ローマ帝国のために働く徴税人や律法を守らない「罪人」たちと交流すること、まして食事を共にすることなど絶対になかった。そもそも、「ファリサイ派」とは、「分離した者」という意味をもっている。自分たちは律法を守らないような者たちは違う! 一線を画する! それがファリサイ派のアイデンティティでもあり、それは彼らにとって「正しいこと」であった。

     しかし、その批判に対してイエス様は「者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)と答えられた。前半は、当たり前のことを言っている。しかし、問題は後半だ。このイエス様の言葉は衝撃的であり、当時の社会の「価値観」をひっくり返す言葉だ。ファリサイ派の人たちは、神様は律法を守る「正しい人」を招き、律法を守らない罪人は招かれない。それがファリサイ派の教えであったし、ユダヤ社会の常識であった。しかし、神の子イエスはまったく反対のことを言われたのだ。

     ここで大事なのは、ここでいう「罪人」とは教義的な「人間みな罪人」という意味とは違うとうことだ。福音書における「罪人」には、社会的なステータスとしての「罪人」理解がある。ある英語の聖書はこの罪人を「アウトカースト」と訳している。アウトカーストとは、ヒンドゥー教における身分制度の中で、触れてはいけない階層に属する人々のことだ。あいつらは社会の外側の人間だ。あいつらは失格者だ。そういったレッテルを貼られる人々たちが「罪人」なのだ。韓国の民衆の神学の神学者ソ・ナムドンは罪とか、罪人というという言葉は、社会学的に見る時に、支配者が、弱い人達や、自分たちに反対する勢力に対してつける「レッテルにすぎない」と指摘する。そして罪人というは、「罪に定められた人々」、すなわち、「無念の人々である」という。

     病気の故に、不遇な家庭の故に、職業の故に律法を守れない人は大勢いた。その人たちは「罪人」と定められたのだ。しかし主イエスはその「罪人」を招くために来られた。徴税人レビは−−無念を抱えていたかもしれない−−は、この主イエスの招きに応え、新しい道を歩み始めたのだ。

     私たちはカースト制度に生きるものではない。しかし、学校においても「スクールカースト」という言葉が使われるように、私たちの中にも熾烈な能力主義的序列、競争がある。どの学校に、どの会社に属しているのかなどで人と人を無意識に階層分けし、判断する社会の中で、私たちも人を傷つけ、また傷つけられている。私たちもレッテルを貼ったり、貼られたりしながら生きている。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。私たちはイエス様によって、新しい価値、新しい食卓に招かれたものだ。この主イエスの食卓につこう!

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