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  • 「主が望まれるのは」詩編147:1−20

    2021年11月21日礼拝説教要約「主が望まれるのは」詩編147:1-20

     詩編147編は「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わる詩編である。詩編の編集者たちは詩編の最後146-150編に「ハレルヤ」詩編をまとめて編集している。詩編には私たちの信仰生活と同じように、嘆きがあり、願いがあり、叫びがあり、告白があり、感謝があり、賛美の言葉がある。この一年を振り返っても私たちは多くの祈りを主にささげた。晴れの日があれば、雨の日もあった。しかし、この教会暦における今年最後の礼拝で「ハレルヤ」(主を賛美せよ)と繰り返し呼びかけていることに大きなメッセージがあると思う。

     「ハレルヤ」と聞くと希望に満ちて元気いっぱいに叫んでいる人たちの姿を思うかもしれない。しかし、詩編147編の背景はそのようではないようだ。「エルサレムの再建」「打ち砕かれた心の人々」との言葉を見出す。バビロン捕囚を経験し、打ちひしがれた人々の間でこの詩編は「ハレルヤ」と歌われたのだ。なぜなら「主はエルサレムを再建しイスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。打ち砕かれた心の人々を癒しその傷を包んでくださる」からだ。神様は、決してあなたたちを見過ごしにはされない。追いやられて散り散りにされる弱いあなたたちを、打ち砕かれ痛んでいるその心を主は、癒やし、その傷を包んでくださる方なのだ。だから「主を賛美せよ」と詩人は呼びかけるのだ。

     先日参加した講演会の中で講師の島しづ子牧師は「孤独とは、だれとも対話することのできない状況のことだ」と語られた。誰か一人でも自分の悩み、痛みを誰かが共感してくれさえすれば、その時に私たちは孤独から解放され、生きる力を得ることができる。そのような関係性をもつことの重要であり、何よりも私たちはイエス様との出会いの中で、祈りの中で、この「対話」をなすことができるのだ。

     詩編147編は「主は……」と繰り返されている。主がいかなる方が告白されている。ここで語られる「主」こそ、クリスマスに私たちのところに遣わされた主イエスにほかならない。イエス様がいてくださるから。私たちは「ハレルヤ」というのだ。十字架で私たちの苦しみと罪をすべて知ってくださるお方がいるから、その絶望から味わい尽くされた主がおられるから。その主が復活しいまも生きておられるから。私たちは「ハレルヤ」と主を賛美できるのだ。試練の中で、キリスト抜きに「主を賛美せよ」と言えば戯言になるかもしれない。しかし、十字架と復活のキリストを信じるゆえに、私たちはどのようなときでも「主を賛美せよ」と呼びかけられているのだ。主が私たちと共にいてわたしたちを癒やし、包んでくださるからだ。来週からアドベントにはいる。主はすでに来られた。そして再びこられる。その間で、私たちは主を賛美しながら、心を高く上げて歩みたい。それこそ「主が望まれること」だ。

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