2021年12月7日説教要約「剣を鋤に 槍を鎌に」ミカ4:1-4
「彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない」(3節)ほぼ同じ言葉がイザヤ2章4節にもある。預言者ミカは、イザヤと同時代人の南ユダの預言者だ。イザヤが王宮に仕えていた預言者に対し、ミカは農村出身の預言者と言われている。彼らが預言活動をした時代は紀元前8世紀。イスラエルの動乱期である。特にBC721年に北イスラエルがアッシリアによって滅亡させられた出来事は、南ユダの人々にとって衝撃的な出来事であった。国が滅ぼされる戦争があり、小さな紛争が繰り返し起こった。
その時の国の有り様を「指導者の罪」という小見出しのある3章で厳しく伝えている。「聞け、このことを。ヤコブの家の頭たちイスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ/流血をもってシオンを不正をもってエルサレムを建てる者たちよ」(ミカ3:9-10)。農民の土地は奪われ、踏みにじられ、格差は広がるばかりだった。そして政治的指導者だけではなく、祭司も預言者も「金」に心を奪われ、教えや託宣も金次第という不義がまかり通っていたのだ。
ミカの目の前には、争いがあり、流血があり、その中で不義を働く者たちが、私腹を肥やしている現実がある。その中でミカは「終わりの日の約束」として4章の預言を記すのだ。「主の教え」「御言葉」すなわち神の言葉が出て、その神の言葉が世界を戒められる! 御言葉の戒めがなされる時に「彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。」とミカは語ったのだ。同時代人のイザヤが同じ預言の言葉を語っていることは重たい。そして農民出身のミカが「鋤」や「鎌」という農具を語ることにリアリティを感じる。
戦争のたびに、田畑が荒らされ、せっかく育てた作物が踏みにじられる。もうこりごりだ。その経験の中で示される「終わりの日の幻」はたんなる「理想」の世界ってことではなく、まさに、切実に求める世界だったに違いない。
「剣を鋤に」の聖句は、「イザヤの壁」としてNYの国連広場の壁に刻まれている。あの世界大戦を経験した人類は、世界が目指す新しい国の形としてこの聖句を刻み込んだのだ。私たちの国においては、「二度と戦争をしない」「武器を持たない」という決意を国の形を決める憲法に定めたのだ。しかし、私たちの今はこの言葉の逆を行っている。私たちの国もいよいよ「鋤を剣に」の流れが強くなっているようだ。
私たちは現実に合わせて神の言葉を曲げるのか? 「正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ」るのか。主の教え、御言葉に従って現実を変革するのか? 神の言葉、神の愛こそ私たちの世界の極めて現実的な「命の道」なのだ。なぜなら、聖書の神は命の神だからだ。その神によって世界は創造され、治められ、導かれているからだ。
アドベント。神は私たちに主イエスを通して、「新しい道」、「新しい掟」を与えてくださった。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)。この方こそ「主の教え」であり、「御言葉」である。この方に聞く時に、はじめて、私たちは、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直し始めるのです。打ち直すには時間がかかります。労力が必要です。私たちは剣を打ち直す「平和を作り出す者」として、この世にここから遣わされるのだ。