2022年1月30日礼拝説教要約「イエスを言い負かした女性」マルコ7:24−30
イエス様は活動の中心地ガリラヤを離れてティルスの地方へ行かれた。そこでイエス様とギリシア人の女性が出会う。女性とイエス様のやり取りが記されているが、いつものイエス様とは随分と違っている。悪霊に取りつかれた娘を助けてほしいと懇願する女性の申し出に対して、イエス様は「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言って断るのだ。しかも、女性を「小犬」呼ばわりするなど、いったいどうして? と戸惑いを覚える箇所である。
注解書などを読めば、イエス様の発言は女性の本心を試すためだったとか、まずはユダヤ人の救いをこのときは優先したのだとなど説明がある。またイエス様にも、ユダヤ人男性としての限界があったとか、フェニキアはギリシア神話に登場する医学の神が祀られているので、外国での厄介事はイエス様も避けたかったという人もいる。様々に解説、解釈されるのだが、イエス様の真意はよくわからない。しかし、イエス様の発言の意図はよく分からなかったとしても、たしかに言えることは、この女性が、イエス様に拒否されたにも関わらず「主よ」と呼びかけ、「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と大胆に切り替えしたことだ。当時の男性中心社会の中で、女性が正面から男性にひれ伏すのも非常識なことだが、断られたにも関わらず、なおも諦めずに女性はイエス様に大胆にも食らいついていった。
イエス様はこの女性の姿に打たれたのか、心動かされたのか、「それほど言うなら、よろしい。家に帰 りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と女性の訴えを聞かれた。岩波訳は「そう言われてはかなわない」と訳出している。イエス様はこの女性に一本取られ、脱帽したのだ。
これはすごいことだと思う。創世記32章にヤコブが格闘する場面があるが、まさに彼女は主イエスを言い負かしたのだ。彼女の思いはイエス様の思いを変えるほどのものだったのだ。
『祈りの精神』という本に「ねばり強い祈り」という項目がある。その中にはこうある。「祈りがねばり強いものとならない間は、本当の力にはならない。そして、神の意志にまで影響を与えたという実感に至らない祈りは、ねばり強いとはいえない。……われわれの祈りに格闘的な祈りがきえて久しい。しかし、格闘的な祈りこそ聖書を支配している理想ではないだろうか」。この女性はイエス様の意志にまで影響を与えた願いをした! そう言えないだろうか。マタイ版ではイエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言われている。
もう一つすごいなと思うのは、イエス様が言い負かされたということだ。しなやかに思いを変えられたということだ。ある女性の聖書学者は、当時の風習だったら女性の振る舞いは男から肘鉄を食らわされてもおかしくはないものだという。それだけ深い境界線がイエス様と女性との間にはあったのだ。しかしイエス様はこの女性との出会いを通して、ご自身の態度を変えられた。イエス様はまことの人として、私たちの社会に厳然と横たわる境界線を自らを変えることで越えていく姿勢を私たちに示し、教えてくださったように私は思う。そこに私たちが違いを乗り越えていく指針があるように思うのだ。