2022年2月27日礼拝説教要約「神に求める人から神を求める人へ」マルコ 4:1-9
めぐみ教会 石塚惠司牧師
1 群衆、再びイエスのもとへ
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」(1節)とあるようにイエスのもとに人々は押し寄せてきた。この群衆の心を理解することから始めよう。「再び」とある。同じような出来事がマルコ3章8、9、10節にある。イエスのもとに病苦に悩む人がイエスに触れようとして再び押し迫ったのだった。イエスの所に集まった人々の心は「病を癒してほしい」その一点だった。彼らはイエスからの答えをすでに決めていた。この彼らの祈りはよく理解できる。「癒して欲しい」、「助けて欲しい」と今朝祈らなかった人はいないのではないか。
2 イエス、群衆の求めに答えず
集まった群衆は確かにイエスを慕い、イエスを信じて集まっていた。しかしイエスは彼らの求めに応えなかった。大勢の病める者たちを前にしてイエスは小舟に乗って座り、人々から距離をとり、そしてイエスはたとえ話を延々と話すのだった。イエスがそうなさった理由は何か。それは人々に原因があった。彼らはイエスを信じる、と集まりながら、祈りの答えをすでに決めて集まり、イエスから聞く心を持っていないからだった。イエスが語ったたとえは後でイエスが解説している(13―20節)。「種を蒔く」のは神の言葉を蒔くことだ、と説明された。そして種が蒔かれた4つの土地は人の4つの心を示していること。蒔かれた種は土地の状況によって多くの実を結ぶかどうかが決まる、と分かりやすく説明された。こうして種のことから神の言葉を聞くことの大切さが解き明かされた。そしてたとえを数多く語った最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのだった。
3 イエスに求める人からイエスを求める人へ
イエスの話を聞いて家路に急ぐ人々の背中はさぞ落胆していただろう、と思うし、イエスも辛かったのではないか、と私は思う。イエスが病に苦しむ人々を前になぜこの種まきのたとえ話をしたかを重く受け止めるべきだろう。
4 口を閉じて、耳をつかって具体的に求めよう
イエスは求めるな、とは言わない。むしろ求めよと言っている。ではイエスの所に集まる者に距離をとり、たとえ話を語り、「聞く耳のある者は聞け」と言われたのか。その答えを考えるヒントはイエスが弟子たちに教えられた主の祈りにあると思う。マタイによる福音書では「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、神の「御名、御国、御心」の三つの祈りを前半にまとめ、後半に必要な糧、負い目、誘惑と3つの悪にまとめている。この順序こそイエスが祈る者たちに教えた態度、と言える。私は祈りのリストを書き、叶えられると赤線を引いていった。だがある時、祈りの手帳をやめた。自分で祈りの答えを限定していることに気づいたからだ。だがまた改めて祈りのリストを始めている。祈りはこうしている。目を閉じ、口を閉じ、心を神に向け、「どうぞお話しください。僕は聞いております。」(サムエル記上3章10節)と語ったあのサムエルのように、心を神に向け、主の言葉に耳を傾けることから始める。あとは自由に思いのままに。そうしていると、私が神を求めているのではなく、神様ご自身が私たちを真剣に求めていてくださっていることが分かってきた。感謝