2021年11月14日礼拝説教要約「主を待ち望め」詩編131:1-3
詩編131編はわずか3節のとても短い詩編だが、とてもシンプルに神への信頼をまっすぐに歌う美しい詩編だ。「主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることをわたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」(1節)。私たちは「高くを見る」ことを肯定的にとらえる。就職試験などで「わたしの目は高くを見ていません」などと発言したら、「志が低い」と言われてしまうかもしれない。しかし、この「目は高くを見る」とは、偶像礼拝に走っているイスラエルの人々を戒めるために預言者たちが使った慣用句的表現なのだそうだ。
そういえばバアルの礼拝祭儀が行われた場所は「聖なる高台」と言われた。また創世記11章に出てくる「バベルの塔」の物語も高い塔を建設して「有名になろう」という企てであった。「目は高くを見る」ことは、主なる神を礼拝することではなく、偶像を礼拝すること、自己顕示欲と結びつく表現なのだ。
詩人は「大き過ぎることをわたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」と続ける。「大きすぎること」、「驚くべきこと」もまた預言者がよく使う言葉であったようだ。とくに「大きすぎること」というのは、権力者が自分たちの力を誇示するように、尊大なことを語ることを預言者が戒める時に使われた(ダニエル書、黙示録など)。「神なしの自己実現は人間を化け物にする」という言葉をどこかで読んだことがあるが世の大国、帝国と言われる権力者たちが自分たちの力こそ、世界を牛耳るかのような発言、振る舞い。それが「大きすぎること」「おどろくべき」ことであり、それをこの信仰者は「追い求めない」、その道を歩まないというのだ。
イスラエルが実際に歩んだ歴史は、心おごり、偶像礼拝に走ったものだった。イスラエルは誇りを回復するために領土拡大、軍備拡大を追い求めた。人々の間の格差は広がり、貧しい人は安い労働力で安く買い叩かれ、富んでいる人はますます豊かな生活を享受する社会になった。秤はごまかされ、搾取が横行し、裁判も賄賂によってまともには行われなかった。
イザヤ、エレミヤ、アモス、ホセアなど多くの預言者が、警告をし、神に立ち帰るように求めたが、北イスラエルも、南ユダも、その声に聞くことなく、北イスラエルはアッシリアによって、南ユダはバビロンによって滅ぼされた……。
そのような経験をするのかで、イスラエルの民はこの詩編を「都に上る歌」としてこの歌を歌ったのだ。破れの経験する中で神の民は、大いなる悔い改めをもってこの歌を歌ったに違いない。単純に高い目標をかかげることがいけないとか、大きなことを目指してはいけないってことではなくて、神の民が歴史の経験に基づいた歌ということだ。
高く、大きくなることを目指す中に潜むおごりへの誘惑がある。先週、瀬戸内寂聴さんがなくなったニュースがあったが、彼女は戦時中、中国の北京で暮らす中で、現地での日本人の行動をつぶさにみた。「中国の人が引く人力車にふんぞり返って乗って、頭を蹴っ飛ばして行き先を伝えるのよ。本当にひどかったわね」と語られていた。
まもなくアドベント迎える。主イエスはどのようなお方として私たちのところへ来られたか? 私たちは馬小屋にお生まれになった主イエスを私たちの主として待ち望もう。